自分の子供の創造性を殺す親たち、教師たち

JBpress 9月13日(火)6時15分配信

 30年ほど前、私がまだ20歳頃の話です。学園祭の委員として「入試」を取り上げたことがありました。ゲストでお呼びした数学の森毅・京都大学教授(当時)の開口一番が素晴らしかった。
 
 「学校いうんはアホをいれて賢うして出す所やのに、いまの日本は賢い子を入れてアホにして出しとる」
 
 場内も、ほかのパネリストも大爆笑となりました。でも、「これってただ笑って済まされる話ではないよな」と、司会進行をしながら率直に思ったものでした。
 
 ところでここで言う「アホ」とはいったい何でしょう。あるいは賢いとは? 
 
 大学は賢い子を本当に選抜できているのか。これからの日本で、教育や研究の改革はどのように進めればよいのか? 
 
■ 制度の設定不良
 
 2016年10月8日土曜日は1日がかりで「国大協大学改革シンポジウム」を東京大学福武ホールで開く予定です。午前中は英語のセッションで米ハーバード大学、独ミュンヘン工科大学と日本の国立大学が国際社会で担う固有の役割を考えます。
 
 この内容も本連載のどこかでしっかり扱うつもりですが、今回のテーマは午後のセッション、白川英樹教授や鈴木寛さんたちと議論したい、初等中等教育からイノベーションと歴史への貢献を考える内容です。
 
 幾度も記す事ですが、勉強と研究は「天地ほどに違う」と言うか「オスとメスくらいには完全に別物」の側面があります。
 
 私自身の職掌を例にお話ししましょう。音楽には演奏という仕事と作曲という仕事、異なる2つがあります。素晴らしい演奏の大家で、作曲させるとさっぱりという人もいるし、卓越した作曲家が練習不足でピアノでコケるといったこともごく当たり前にある。
 
 小学校からずっとピアノを習って練習している女の子がいるとしましょう。それが高校なり20歳過ぎなりになって、それまで一度も作曲なんて習いもしない、考えたこともないのに
 
 「新しい曲を作ってごらん」
 
 と言われたら、とまどいませんか? 
 
 皆さんご自身を考えてみたらいい。小中学校の音楽の授業でいま何を教えているのか正確には知りませんが、突然「プロベースで通用する楽曲を作りなさい」と言われたら、とまどうと言うか、無理だと反応するのが普通でしょう。
 
 当たり前のことです。で、日本の制度はそれに類することをやっている。制度として完全におかしなことがまかり通っていると指摘すべきです。
 
 音楽を仕事にしてかれこれ30年、プロの卵を教えるようになって20年ほど経ちますが、演奏は教えられるけれど作曲を教えるのは不可能に近いと思います。
 
 これは私のみならず、バルトークとかラヴェルとか、多くの先達も述べている通りで、「作曲法」について話すことはできても、ある若者が作曲しようと思う動機を身の内にはらむかどうかは全く別問題で、他人が介在するようなことではありません。
 
 主体的な動機、内発的な好奇心、どうしてもやらずにはいられない心というのは、人が押しつけるようなものではない。目の前でやってみせ、気持ちを掻き立てるといったことがせいぜいだと思います。
 
 これと全く同じことが起きていると思うわけです、ほとんどすべての学問分野の創造的研究において。以下、上の文章をコピーペーストして、単語だけ入れ替えて構成してみましょう。
 
■ どこに創造性があるか? 
 
 いま小学校からずっと算数・数学を習って勉強している女の子がいるとしましょう。それが高校なり20歳過ぎなりになって、それまで一度も理論なんて習いもしない、考えたこともないのに、
 
 「新しい定理を作ってごらん」
 
 と言われたら、とまどいませんか? 
 
 皆さんご自身を考えてみたらいい。小中学校の算数数学の授業でいま何を教えているのか正確には知りませんが、突然「国際専門誌で通用する論文として新しい定理を作りなさい」と言われたら、とまどうと言うか、無理だと反応するのが普通でしょう。
 
 当たり前のことです。で、日本の制度はそれに類することをやっている。制度として完全におかしなことがまかり通っていると指摘すべきです。
 
 大学に招聘されてかれこれ18年、東大生と呼ばれる若者を教えるようになって17年ほど経ちますが、勉強は教えられるけれど研究を教えるのは不可能に近いと思います。
 
 これは私のみならず、ファインマンとかディラックとか、多くの先達も述べている通りで、線形代数とか電磁気学について話すことはできても、ある青年が創造的な新理論を構築しようと思う動機を身の内にはらむかどうかは全く別問題で、他人が介在するようなことではありません。
 
 主体的な動機、内発的な好奇心、どうしてもやらずにはいられない心というのは、人が押しつけるようなものではない。目の前でやってみせ、気持ちを掻き立てるといったことがせいぜいだと思います。
 
 どうでしょう。同じことを別の表現で記してみましょう。
 
 小学校から高等学校まで、お勉強は習っても、そのお勉強の一番厳しい水準よりもさらに厳密に細部を詰めて、独自の研究に取り組むという経験をしている子供は非常に限られていると言うべきでしょう。
 
 平たく言うなら、例えば東大の入試にはそういうものは出題されていない。で、受験に出ないとなると多くの学生生徒も、父兄も、高校の先生も予備校教師諸氏も、はっきり言って真面目に取り合わない人が過半を占める。
 
 「自由研究」とか「夏休みの観察」みたいな課題は確かに存在しますが「主要科目」のように集中した取り組みで厳格を極めるなんてことはないんじゃないでしょうか? 
 
 「そういうものは自由でおおらかでよろしい」
 
 そんな風土の中で、既存のテキストをコピーペーストしたり、実験観察のデータを誤魔化してウソのリポートを出したのに、気がつかれずに誉められたりして、おかしな味をしめたのではないかと疑われるようなケースが、いくつかありました。
 
 いわゆる論文不正、学位論文の捏造などを言っています。STAP細胞詐欺というひどいケースがありましたが、「ゆとり世代」ど真ん中が引き起こしており、原因の一端が察せられます。
 
 学部、修士、博士の学位どころか、それ以前から割烹着など着て見せるおちゃらけで人の気を引くことだけ覚えたのではないかと、冷静に学生を見る習慣がつき切った50代の一大学教員としては思った次第です。
 
 逆なんですよね。
 
 『「自由研究」とか「夏休みの観察」みたいな課題』の延長に、あらゆる専門の研究論文が存在している。で、そこで行われるあらゆる仕事の細部に「主要科目」の内容を筆記式の2次試験よりはるかにシビアに適用して、この仕事を進めて行くのが、本来のアカデミアのクリエイティブ、研究大学の創造的な活動にほかなりません。
 
 入試の英語の試験は、しょせん箱庭の中のゲームです。でも専門論文を書く上での資料読みは値引きのない最前線の取り組みだし、論文そのものを英語など各国語で書き下ろす作業は、入試の英作文みたいなビニールハウスの採点では通用しません。
 
 これをしろ、と厳密に課題を設定されると、細かなこともするけれど、「これこれについて研究しなさい」と言われると、1つも厳密なことがなく、すべてがいい加減・・・。こんなことでは物事が成立するわけがありません。
 
 これは職業で考えると、より明確と思います。
 
■ JCO東海村臨界事故から考える

 
 これをしなさい、と細かく課題を与えられると手が動くけれど「新商品を開発しなさい」的に漠然と言われても手が止まってしまう・・・。ありがちな話です。
 
 しかし、いったん作るものが決まったら、食品でも半導体でもゲームでも鉄鋼でも、モノを作る現場にはウソは通用しませんから、工場のような最前線ではしっかりした仕事が、本来は進められる必要があります。
 
 そういうマニュファクチュアを支える人口をしっかり、大切に考えるというのが、実は国大協大学改革シンポジウムの午前の部、国際セッションでのトピックなのですが、これは次回以降に考えましょう。
 
 問題は、生産ラインなど嘘の通用しない現場で働く人が、むしろ給与などで冷遇され、現場を知らない管理サイド、さらには現場を知らない管理サイドの実情すらよく理解していない経営コンサルタントなどが介入して、嘘の通用しない最前線にウソを持ち込むケースすらあることでしょう。
 
 しばしば挙げられる例ですが、1999年9月30日、茨城県東海村にあった住友金属鉱山の子会社JCOで発生した核燃料臨界事故は、現場を知らない経営陣が、そこで何が起きているかを理解しない1次就労者に、決して「してはならないこと」をさせた結果、必然的に発生したものでした。
 
 核燃料は一定の密度に達すると「臨界」して熱や放射能を発生します。ですから、その製造にあたっては、原子炉の中、制御棒などでコントロールされた状況で初めて臨界するよう、注意深い設計がなされています。
 
 その詳細を理解しない経営陣がブラックボックスで運転し、さらに経営改善をコンサルに相談したところ、二重三重に危険を回避するように設定されていた人事を含むメカニズムを「リストラ」してしまった。
 
 現場では「作業効率」を上げるために、本来なら細いタワー状の装置で行わねばならない作業を幅広の沈殿槽で行い、手作業でステンレス製バケツで硝酸ウラニウムなどの物質を取り扱っていた・・・。
 
 物質にはウソやごまかしは通用しませんから、生成された放射性物質は、ある密度に達すれば臨界してしまいます。
 
 で、この事故を引き起こしてしまったJCOの経営陣や現場責任者のような「勉強」に、終始しているのではないか? という懸念を持つわけです。つまり、ブラックボックスであり、本質と無関係に「ここをこうすれば合理化できる」などと勘違いするような誤謬です。
 
 非常に遠い例ですが、入試問題と受験産業のいたちごっこにも、似たようなことが言えるように思います。
 
 良問を作りたいと考える出題者は、受験生がその場で手を動かし、頭を使って考え、その過程から思考力や推論の力、結果をまとめて表現する力などを見たいと考えます。
 
 これに対して、受験産業の大半がやっていることは「試験会場で受験生が頭を使わなくても安全に正解とされるものを書けるようになる訓練」です。


最終更新:9月13日(火)6時15分

JBpress

 
 

コメント(Yahooニュース)
hid***** | 2016/09/13 09:03
私も殺されないようにしたい。
 
tri***** | 2016/09/13 11:18
記事が長い。
 
d6u***** | 2016/09/13 06:27
すごくわかります!
頭の回転や専門的なスキルや発想などにおいて、
小学生の頃の方が良かったと思います。
まず職業を決めてから学ぶのと学びつつ職業を決めることの違いかもしれませんけど。
差は大きいですね。

 
sar***** | 2016/09/13 06:27
公教育は一定レベルの国民を作るところです。
創造性だ個性が言うなら私立に行くべきでしょう。
 
  Sarada | 2016/09/13 09:42
  うん、だから今の公立の在り方について疑問を投げかけてる記事だからね
 
onzi***** | 2016/09/13 10:52
子供の「創造性」ってそんなに大事なの。
ある程度、基礎・基本を習得して、それが使えるようになってから「創造(独創)性」を発揮すれば良いと思うけど。
「創造性」だけだったら、オウム真理教なんかは、超創造性。
 
くま | 2016/09/13 07:13
だからこそアクティブラーニングの導入やセンター試験廃止などの教育改革が進んでるんだろうけれど、
政財界の目的はやはり今までと変わらず全体の底上げでなく最上部のエリートをグローバル人材に育て上げるだけ
所得の格差が増大しているということは学力格差も益々拡がるということ
 
それに教育と同時に同時に日本の社会も変化させないと主体的に動ける人間を育んでも結局潰されてしまう
空気を読んで物言わずに上に従って黙して働く人間が重宝されたり失敗した人を二度と這い上がれないほどに叩きのめすような今の社会では
 
大人が人間らしい生活のできる穏やかな社会で生きていないで、子どもだけ清く強く育って輝けってのは無理
 
・・・・などなど


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管理人:
自主性が多少は育つクラブ活動が盛んなことが救いですね。
韓国みたいに入試至上主義だったら、どうなっていたことやら・・・

ようは自分のしたいことを見つけて、そのために何をすれば良いか自分で考えられるようにする
ってことなんだよな。

海外みたいに、「大学は簡単には入れるけど、卒業は簡単にできない」って感じにすれば
入る前に何がしたいかを考えるようになると思うけど。